昭和57年9月14日朝のご理解
                               入力者 大坪寿子
88節
昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。

あー、昨日、おとといですか、日曜の昼、鹿児島の女子大に行っておられる方が、あるお願いをなさった。うーん、お取次ぎさせちただいたら、昔の、昔と言うか、今はかがみもいろんなモダンな鏡がでけてますけども、まーあの、昔の鏡ですねー、長い姿見の鏡。両端がネジになってます。そのネジが緩んでるから、鏡を、自分の全身を写そうと思うけれども、またすぐにスーッと元に戻ってしまう。ネジがきっちとしておくと、あのー、鏡がのちょっと斜めにしますと、全身が写るでしょう。えー、ですからほんと、わずかな、あのー両のネジをきっちと締めておかんとね、教えを教えに、ならない。身につかない。顔だけしか見えなかったり、一部分だけしか見えない。全身、いうなら、全霊がその鏡に映るような、おかげをいただかんと、ほんとの良い信心はでけないよ。というて、お話した事でございますが、この肝心要の、いわゆるこのネジがね、きっちとしとかんと、あのー、自分のぜんしん、ぜ、を写す場合に全身が写らない。まっすぐにすーっと、なってしまう。ちょっと斜めにすると、足元まで写るでしょう。ね、88節はいつも思うんですけども、ほんとに広がりに広がるおかげを、誰でもいただきたいというおかげをいっぱい持っておるんですけども、肝心要のところができとらんですね。えー、おかげをおかげ。一生懸命信心しよるごたけれども、肝心要のところをはずしておるから、ね、いかにも広がったごたるけれども、またガチャッと、こうなってしまう。要が、いわば抜けたり、かんぜんでないからです。
昨日は、あー、13日会で、皆さんの、おー、発表を聞かせて頂いて、まー、色々感じさせて頂いたことでしたけれども、えー、ここに修行生を代表して、網先生が発表しておりました。ほんとに修行生としての、心得、心がけというものが、あのー、先生が言っておられましたようなところに、おかれなければ、合楽であれを覚えよう、体得しようというのじゃなくて、合楽で修行するからには、ね、親先生のご信心にそのものに、かんならわなければならない。出来る出来ないは別として、そこに焦点を置かなければいけない。世界万国津々浦々に、ね、合楽理念の広がりを願っておられる、うんならば、修行生のあたくしどもも、願いはそこに置いて、和賀心を全世界に。というならば、自分の願いも、やっぱりそこに置かなければいかん。師匠の願いと同じにならなければいけない。そして先ずは自分の心の中に、和賀心を。まず自分の周辺にそれを広げていこう。と。願いそのものは、親先生の願いに応えまつろうと、おー、する生き方でおるけれども、なかなか、おー、思うように出来ませんけれども、といったようなお話だったとおもうんです。ね。これはなら修行生の先生が、やっぱ、まただんだん信心てあつう頂いて、いうならば、あー、合楽の、おー、教会の事を、願われ、思われると言うならば、やはりなら、親先生の祈りが成就すると言う事、ためには自分も親先生と同じ祈りに、生活全体がなってしまわなければいけない。と思うんです。
えー、山本さん、それから関谷さんの、おー、聞いて、ほんとにかんし、まーほんっとに関心しましたが、えー、皆さんはどう感じられたでしょうか。うーん、例えば関谷さんのお話をなんかいただいておると、そりゃ長年久留米から参って見れるときには、ただお願いお願いのお参りばっかりだったですけれども、福岡の方に移られて、たまたま、あのー、九の一会の伊藤さんのところで、毎日にっさんをされるようになり、毎日教話をいただく、とにかく、日参、教聴、心行、信行、家業の行が、もう見事に、出来る出来ないは別として、それに取り組んでおられるというものを感じましたね。お二人の話に。どうでしょう皆さん。日参、日参、教聴。ね。心行、信行、家業の行に取り組んでおられるだろうか。関谷さんが何回もお話の中で使われましたように、もうとにかく、合楽の信心は、もうここに、伊藤さんが言われるように、心一つで全てを作るのですから。と、もう全ての事が、もう事じゃないです。御事柄ですということを、何回も使われたでしょう。しかもそれに取り組んでおられるというものが、話の端々からかんじられたでしょう。全てのことが、御事柄なのだと。結局おかげ頂くいただかんは、もう心次第、自分の心一つにあるのだと。ね。伊藤さんのはなしを聴くたんびに、ね、ほんとのことに、まーあかぬけでけておる、でけていないということは別として、日参、教聴、心行、信行、家業の行が、なるほど、毎日日参されよるわけじゃないけどれども、伊藤さんの所にお参りをされよる。ね。もう毎朝御教えを頂く。ね。もうどんな場合であっても、「はぁーそうだ。もう、自分の心一つにあるのだ。」と、心を、言うならば、そこにネジがしっかりしとるから、自分の全身全霊が鏡に映るわけです。ね。息子さんの、ギャンブル好きであったり、もう大変なお酒飲みで、久留米におられるじぶんから、お願いはずっとしよんなさったけれども、いっこうおかげんならなかった。だからもう、いうならば、御事柄として、黙って治める生き方を、本気で腹を決めたという、ね、決めたら、ほんとにその息子さんのほうから、あー、もうギャンブルはやめた。あー、お酒ももう、とにかくビールを一箱こうとると、何ちかしかないげなもん。一箱が。というように、お酒好きだった。それがもう、かわんでよかっち。もうそのお届けがあってから、ずいぶん長いことなりますけれども、いらい、昨日のお話を聞いておると、それが続いておるです。自分が体が悪いから、伊藤さんにお話したら、もうあたくしはどうかあるときには、「これが人が助かることのための修行と思います」っち伊藤さんがいわっしゃったち。だから自分にとってはまーだまーだ、人が助かることのために修行てんなんてちは思ってなかったけれども、ここに結局、あの、それをでけんけれども、実行、あのー、周囲が助かることのための修行として、まー、頂いておりましたら、ねー、ならね、孫の小児喘息がおかげ頂いておると。勿論、自分の体もほとんど健康になったという発表をなさっておられましたでしょう。肝心要のところがきっちとしてですね、いうならば、合楽理念に素ずく生き方をしたらね、そういうふうに、はっきりおかげがあらわれてこなん、ウソなんですよ。合楽の場合。ね、話しっとる。きいとるけれども、それにあたくしはあのー、関さんの話を聞きながら、本当に実行しよるもんでなからなけりゃ、ああいう話はでけんと思うたですね。ほんとに心一つで全てを作るということをもう、そういう風に思いこんどる。ね。全ての事を、ね、どうしたことじゃろかじゃなくて、それを御事柄として、うけようと精進の姿がです、次に言われるおかげに現れてきておる。ね。山本さんの場合なんか、これにもう一つあかぬけしたものであって、それによって、合楽で言われる、いうならば、信心度胸と言うか、あー、安心の、合楽で言われる、安心のおかげ。いわゆる傘一本で開ける道といわれるようなものが、だんだん身についていっておられる。そこで、いうなら日頃、山本さんの信心ぶりというものを、お互いに見てみらんなければならないのですけれども、ね、ほんとにもう実験していく者には勝ちません。そこに実証が生まれてくるから、もうそれが有難くなってくるんです。ね。鏡を立てる。けれどもそれこそ、自分の顔だけしか写らんといったようなことでは、自分の全身が全霊が写るというものには、ね、鏡が自由自在に、こう、おー、斜めにもたてにもなるように、横のネジがきっちとしま、締まっておらなければダメ。心一つで全てを作る。なるほど自分の心を見つめてみると、なるほどおかげをいただけんはずが分かる。ね。
えー昨日あたくしは、その13日回で皆さんお話を聞きながら、思ったことでございますけれども、もうほんきで、あの、その気になって、もう、もうそれでいこうという腹が決まったら、もう必ずおかげいただくなー。おかげいただかんならね、まーだ、また失敗しました。また失敗しました。ね、第一、本気でそれを、もう、本気でそれを行じようという構えも作っていない。これにはおかげにならんです。ね。昨日の、関谷さんの妹さんの、それこそおかげの方もすっきりとしたおかげですねー。ね、それにはやっぱりあたくしどもの心ん中に、もう一つの一心発起というかね、もうその修行に本気で取り組ませてもらう。ね。信心はさせてもらいよる。合楽理念も覚えとるけれども、その合楽理念なら合楽理念に本気で取り組むということが、ね、見たり聞いたりしよるけれども、肝心要のところがゆるいから、自分の姿が移らない。ね。肝心要のところをきっちと、締め上げて、ね、そして行くときに、そこには、人じゃない、事柄じゃない、なるほど全てが御事柄であるなー。なるほど心一つで全てを作ると言われるから、もういよいよ心の、姿という物を、はっきり見極めることがでける。それに取り組む。改めて、いうならば、口で唱えるだけではなくて、日参、教聴、心行、信行、家業の行。ね、それには、いうなら、網先生が申しておりますように。間違いのない眼目をきちっとそこに置いて、それに近づこうとする一歩一歩の前進。山本さん関谷さんのお話を聞いて、こちらに伝わってくるもの。「あー本気でこの人たちは教えに取り組んであるなー」教えに取り組むとが、はー、もうほんと苦しいもんじゃあります。術ないですというものがない。もうむしろたのしゅうして有難い。一心発起したところから、ならもうそんな場合であっても、心一つにばぁっとこう焦点があわせられる。どんなことであっても、御事柄として受けられる。まーその受けることに精進させてもらうという腹が決まった様子を、昨日の、おー、皆さんのお話から、こう感じさせていただいたんですけれども、おー、いよいよ、ね、広がりに広がるおかげを頂きたい。ね。うんなら、このご理解から頂く、いつも黙って治めるといったようなこと何かでもね。それこそまず、御事柄ということがいただけて初めて黙って治められるのです。
昨日あたくしが最後の聞いて頂いたように、ね、こう手で山形を作っておる。御神願に。だからそれはもうきつい山なんだけれども、ね、その山を、山登りをするときのような、難儀なら難儀、苦しいのは苦しかろうけれども、そん時ほど、いうならば、もうしたをこうあわせれる、合掌できれれる、チャンスを与えられておるのである。ね。山に取り組む。いうなら要素拝山である。ね。山を拝んで、行く生きかたに、いよいよいやがうえにも養われていくちうのです。ね、ここまではもうきとるけ、そういう難儀なときには、パッッとこうここに持ってくる。ね。わざわざもうここにもってこんでええ。もうここに山があるんだから。下の方をこうあわせりゃ、それが合掌の姿になる。それを合掌して受ける生き方をね、身につけさせていただく。ね。黙って治める黙って治めるというても、ね、それ前に、御事柄として、もう全てが御事柄ですからという、頂き方をネ、御事柄として受けていく。それに徹していく。そういうようなものをね、昨日あたくしは13日会に感じさせていただいて、それを実験実証しておられる人の話を聞いた思いがいたしました。なるほど、おかげもすっきりあかぬけしたもんだなーと、いう風にも、また思いました。ね。いよいよ、教えの鏡は立てちゃおるけれども、どっかネジが緩んでおらんでしょうか。だからダラッーとこうしてまっすぐなっとるだけじゃから、らね、(?うばはし)ばかりしか、だけしか写らんというようなことでは、下の方は、不平である。不足である。全身全霊がうつっとらん。不平どんでんない、不足どんじゃない。ほんとに、御事柄として頂けれる。そこに黙って治める信心に徹していくこともまた出来る。そこにはいよいよ、ね、広がりに広がるおかげの土台が、ね、出けていくということになります。どうぞ。